カチ、コチ。音がする。
目を開けて首を動かしても、そこに音源はない。窓の外には、薄く陰った月があるだけだ。……今日は上弦の月か。
気のせいだと思い、また目を閉じる。すると、止んでいた音がまた頭の中で響き渡る。
カチ、コチ。カチ、コチ。
この人生で何度も聞いてきた音だ。特段の不快感はなく、ふと気を緩めればすぐに眠りの底へと落ちそうなほどだ。
カチ、コチ。
シャマルはドアがけたたましく叩かれる音で目を覚ました。
夜行性の種族故すぐ寝付くことが出来ずに、やっとまどろんできた頃だったので、不機嫌さを隠せずにドアを開けると、そこには冷や汗を大量にかいた踊る小人亭の主人が立っていた。
「……なにがあった?」
その姿にシャマルは一瞬で察する。これは、何かがあったと。
急いで装備を整えて出てみれば、クローとアルマ、レイヴンはすでに外で事情を伺っていた。ランタンを掲げた光に顔が照らされたアルマが、シャマルに気づくと軽く手を上げる。
「……話は?」
「聞いた。森の方へ入っていったらしいが」
「……山賊、ではなさそうなんだな?」
ああ、とレイヴンが暗い顔をして頷く。そうしているうちに、さくらとリリィがそろって宿から飛び出してきた。
「シャマルさん!」
「皆、ありがとう。聞いたと思うが、デブリスに武装した何者かが襲撃した。既に被害者は出ている、追いかけるぞ」
シャマルのドアを叩いてたマスターが、早口で伝えたのは以下のような内容だった。
つい先ほど、帰宅途中だった雑貨屋の主人が何者かに襲われたらしい。姿形は見えなかったが、どうやら相手は男のようで、長い得物で腕をばっさりと切り付けられており、被害者が悲鳴を上げるとすぐ逃げ出したらしい。
下手人と思われる男は森の方面へ逃走、ちょうど居合わせた猟師が追ったが、彼の安否は不明。
怪我をした雑貨屋はそのまま気絶してしまい、犯人の詳しい様相は不明だ。
そして宿のマスターは、とっさにシャマルたちに助けを求めた、というわけだった。無論、報酬は出すという約束も取り付けて。
「考えられるとしたら、山賊なんだが……」
早速逃げたと思われる暗い森の中を進む闇払う旗。その先頭で走るシャマルがぼやく。犯人の足取りは不明だが、おそらく彼の持っている刃物についている血の匂いがひどく濃厚に漂っていた。それを辿れば、おのずと目的へは到着できるだろう。
「でもこっちは山賊が出た方面と反対だ。考えられねぇ」
張り巡らされている木の根に転ばぬようにシャマルの後ろを走るアルマが言った。そう、アルマの言う通りに男が逃げた方面は、あの山とは反対側だった。
もし山賊の残党による攻撃ならば、慣れ親しんだ場所で待ち伏せをするだろう。けれど、それをせずに反対方向へ逃げるということは、他の可能性が高い。
「なぁさくら」
「なーに?」
レイヴンを除く他のメンバーが危うげな足元に気を取られている中、ひょいひょいと駆け回るさくらにアルマは少しだけ視線を移す。
「音、しなかったか?」
「なんの?」
「……ならいい」
目の前に現れた枝をとっさに頭を低くして避け、舞い上がる木の葉を振り払いながら、さくらたちは犯人を追った。
「ここだ」
シャマルが足を止め、刀に手をかける。その紅い眼は暗闇を見通して怪しげな人物をしかと捉えていた。リリィも背負っていた槍の鞘替わりの布を解くと、緩く構える。
「……」
ぴり、と空気が張り詰める。今晩は少しだけ気温が低くなっているようだが、この緊張のせいか体は妙に熱かった。いくら経験を積めども、未知な敵に対する恐怖や警戒心というものは変わらないものである。
その一方で男は闇払う旗に背を向けており、どんな服装でどんな顔つきなのかもわからない。何か言おうとしたクローをシャマルが片手で制すと、ふぅと息を吸い込んだ。
「……答えろ。デブリスで人を襲ったのは、貴様か?」
「……」
男は答えない。ゆらゆらと手を揺らして、持っている何かを上下させているだけだ。どうやら答える気もないらしい。
―――血の匂いが濃い。
「答えないのならば、肯定と取る。さぁ、武器を捨てて……」
そこまで声をかけると、シャマルはハッと口をつぐんだ。そのまま口元に手を当て、あることに気が付く。
「シャマル……」
レイヴンがそっと声をかける。そう、彼はわかるのだ。
シャマルと同じ、人間ではないイキモノだから。
「―――貴様!!」
シャマルが怒鳴った瞬間、それが合図のように闇払う旗が男に攻撃をしかける。リリィとクローが左右から挟み撃ちのように槍と剣を振りかぶったが、男が“垂直に跳躍し”それを避けた。
「ッ!?どういうことです!?」
二人の間合いは完璧だった。普通の人間ならば避けられぬスピードと角度で手を打った。……だが、男の跳躍は人間の身体能力をはるかに超えたものであり、銀色の軌跡は虚しく空を切る。
「人間じゃない!?」
「いや、この血の匂い……確かに人間だ!」
「死霊でもなさそうだな……」
跳躍した男が地に足を着ける前に、レイヴンが無声で魔術を発動させる。黒い羽根が舞い上がり、それが弾丸のように男を貫く……はずだったが。
「!?」
レイヴンの金色の眼が見開かれるのと、男が手に持っているものから緑の光が放たれるのは同時だった。一瞬だけさくらはその眩しさに目を細めたが、すぐに目を見開き地面を蹴った。
そして翼を切られたレイヴンに向かって一本のナイフを投げる。
「レイヴン!」
「……なんだ、クソ…今の……!!」
投げられたナイフは落下していたレイヴンの服だけを貫通し、近くの木に縫い留められることで地面に衝突することは防がれた。そして一拍置いて重さに耐えられなくなった布地が破け、尻もちをつくレイヴン。駆けつけたさくらが手早くレイヴンの翼の具合を見れば、ばっさりと切られたような傷が出来ていた。幸いにも、骨や神経は繋がっているようだが。
さくらはほとんど勘と反射によってナイフを投げたのだが、あの男が“飛ばした”斬撃によってレイヴンの翼が負傷した。
「動かないで!」
「……あぁ……。あれは……魔術…か?」
さくらは腰につけたバックから包帯を取り出すと、止血の為に素早くレイヴンの翼に巻いていった。
レイヴンを切り落とした男を追ってリリィとクロー、アルマがいなくなったころ、シャマルは“それ”を見ていた。
……治らない、神聖術でも、これでは。
猟師と思われる人間の体はバラバラに切り刻まれていた。頭、右腕、左腕、胴体、右足、左足。アルマやさくらからは暗くて見えなかったが、レイヴンや血の匂いに敏感なシャマルからは、遠くからでもわかったのだ。
すでに助けるべき人が死亡していることが。
「……」
レイヴンのほうをちらと見れば、さくらが適切に処置しているようだった。顔色もそれほど酷くはないので、今すぐシャマルの助けが要るわけでもなさそうだった。
さくらに目で「頼む」と合図を送ると、シャマルは犯人を追いかけるために霧になって消えた。
一方、リリィとクローはようやく全貌を現した犯人と交戦していた。男が手にもっているのは、柄も鍔もない武骨な、鉄片をそのまま刃にしたような長い剣だった。その軸となる中心には緑の光が灯り、時折怪しく脈打つように光っている。
「リリィ!気をつけろ!」
「わかってます!」
普段なら接近戦を得意とする二人も、今回だけはしっかりと距離を測りながら戦っていた。というのも、先ほどレイヴンを撃ち落とした斬撃……それを、すぐ目にしたからだ。
二人の背後には真っ二つに斬られた太い樹木が何本も倒れており、あれがもし人間の体だったら、と考えるだけでぞっとしない。
「クロー、どう思いますアイツ」
同時に斬りかかった槍と剣を、一本の剣だけで受け止める男。そして下から上へ撫で上げるように振り払い、勢いを殺すことなく地面にたたきつける。
するとまた緑の衝撃派が飛び散り、リリィとクローは飛びのいた。彼らが立っていた場所には、剣で何度も斬りつけたような跡が残っている。
「どうもこうも、普通じゃねぇ」
クローが体勢を整える前に、男はぐんと腰を低くして間合いを詰めた。まさに“一息”で詰められ、剣の切っ先がクローの頬をかすめる。
「―――!」
翡翠の光が目前に迫る。薄く裂かれた皮膚から血が糸のように噴き出すのが、スローモーションのように見えた。
二、三歩後ろに下がり、このままやられると歯を食いしばったクローだが、リリィが追撃を許さない。槍の柄の部分で男を横に薙ぎ払い、クローの舌打ちを聞く前に放たれた斬撃を、正面から受ける。
「はぁあああ!!」
緑の光に対抗するように、リリィの槍が淡い光を放つ。冒険者ならば基本の技となる居合切りだ。霊体にも通用する技ならば、この斬撃を相殺できると考えたのだろうか。
「ッ!?」
けれど、白い光と緑の光では前者が押し負けた。クローがとっさに前に出るより、ぶつかった力が爆風となり砂と木の葉を巻き上げる。
「リリィ―――!!」
「……ありがとう、ございます…」
俺は何も、と言おうとしたところで煙が晴れて、クローはむっと口を噤む。リリィを抱えて攻撃を躱したのは、まだ黒い霧を身にまとったままのシャマルだったからだ。
「来るのが遅ぇ」
「悪い」
シャマルはクローには視線も移さず、決して敵から目を離すことなくリリィを地面におろした。リリィも、すぐに構えなおして戦いに備える。
「……」
男の眼はどこかうつろだ。それでいて、肌を裂くほどの殺気を帯びている。そしてあの斬撃、居合切りでも打ち消せないとなると、相当な魔力を帯びた攻撃なのだろうか。こういった手合いはアルマやレイヴンが詳しいのだが……そう思いながら、シャマルは刀を構える。
「命はないと思え」
言葉が言い終わるか終わらないか。刹那のうちに、夜より黒い影と緑の光が交差する。金属が激しく撃ち合う音が響き、擦れる衝撃で火花が散る。
ぱちぱちと照らされる光に照らされながら、クローはやはり違和感を拭えなかった。
今のシャマルと対等に刃を打ち合っている人間。それは、吸血鬼という夜の種族にとって最高の時間帯である『深夜』で、それと互角かあるいは以上に戦えているということだ。いや、もしかしたらそんな的外れな存在はいるかもしれない。が、それでもクローやリリィとの戦いを受けて微塵も疲労を見せないのは、何かおかしい。
それに、手足の動きが妙だ。
こうして一歩離れてみればわかるが、まるで剣に振り回されているような、糸を結ばれた人形が無理に踊らされているような―――
「……シャマル!」
クローがリリィの悲鳴から思考を戻されると、シャマルの右のわき腹に剣が怪我を負わせていた。けれど、それで怯むようなシャマルではない。
そのまま右手で剣を掴むと、左足を大きく踏ん張らせた。
「力比べをするつもりは、ない」
ぎり、と歯を食いしばれば、少し腰を低くして。
剣を未だ握ったままの男を、弧を描くようにして放り投げた。
「!?」
その時、初めて男の顔が歪む。まさか、このまま投げられるなどとは思っていなかったのだろう。
シャマルの怪力もあるがそれ以上に。
「……さて、こっからが力比べだ」
投げられた男は奇妙なほど高く、それこそ重さを失ったかのように打ち上げられると、三人がいる場所から少し離れた場所まで飛ばされた。そして、何かに引っ張られるようにして地面に叩きつけられる。
「ぐ、ぐうううう!!」
男の肺があまりの“自重”に耐えられず、ひしゃげた音を出す。それを冷徹な目でアルマは見つめていた。
「どんなにバケモンじみてても、人間なら関節を砕けば動けねぇか」
そういってするり、と指を横に動かすと、乾いた音が響く。……男の関節が砕かれた音だった。すると男は四肢に力を込められなくなり、だらりと地面に倒れ込んだまま動かなくなった。
「……さて、と」
アルマは飛ばされて突き刺さっている、先ほどまで男が握っていた剣を見た。まだ剣の緑の光は脈打っており、禍々しい雰囲気を醸し出している。
剣に軽く手をかざすと、アルマの顔が見るからに陰る。
「……アルマ!大丈夫か!?」
「―――ッ!!」
シャマルの心配する声に顔を上げれば、リリィとクローも一緒にアルマの方へ走ってきていた。
―――その時、シャマルはアルマと目が合ったが、いつもの冷静沈着な兄とは違う、焦った瞳だった。そんな顔をするのはめったに見ないので、ほんの少しだけ歩調が遅くなる。
「来るんじゃねぇ!!」
アルマはシャマルたちに向かってそう叫ぶと、剣を手に握った。
「……さん……シャマルさん!!」
「う……」
肩を揺らされて目を覚ませば、シャマルは森の中で寝ていた。全身、砂と汚れと葉っぱだらけになっており、固い地面で寝ていたせいか節々は傷んだが、大きな怪我はないようだ。
こちらを覗き込んでいるのは、大きな灰色の瞳。……さくらだ。とても心配そうな顔をしている。
「すっごい探したんだから!もー、レイヴンは飛べなくなっちゃうし。リリィさんもクローさんもいないし……」
「え、ええ……?」
まだ覚醒しきっていない頭で思い出す。レイヴンが飛べなくなった?リリィとクロー?混乱したままあたりを見回せば、リリィとクローも地面に倒れ込んでいた。おそらくは、つい今さっきの自分と同じように。
「えっと、何があって……」
「記憶喪失!?やめてよね、あたしたちはデブリスに出た敵を退治しに行ったんでしょ!」
「……ああ、そうだった」
そう、そうだった。
自分たちは、デブリスに現れた通り魔を追いかけて森に来たのだった。
だが、その男はとても強く、最終的にアルマが重力魔法で抑え込んだのだった。
「敵は!?」
「安心して、縛ってあるから」
もしかしてまた逃げられたのでは、と一瞬肝が冷えたが、さくらがウィンクをしたので大丈夫なのだろう。ほっとしたのもつかの間、あることに気が付く。
「……アルマは?」
「それが……」
さくらが言葉を濁して、シャマルから視線を外した。シャマルもそれにつられて改めて周囲を観察する。
……アルマの姿はなかった。代わりに、周りの木々が“すさまじい重さで押しつぶされたように”歪み、曲がり、折れていた。
ここ一帯を襲った超重力が、シャマル、リリィ、クローが気絶してた原因とみて間違いはなさそうだ。